臨  徳川秀忠・小歌


徳川秀忠(1578-1632)
徳川二代将軍として江戸幕府の基礎を固めた。
人柄も良く学問にも熱心であったという。
豊麗な筆致である。

君ハ初音の郭公松に


臨  藤堂高虎・書状

藤堂高虎(1556-1630)
幼時より武勇の誉れが高かったが、
文学・茶道にも通じていた。

急度申入候
一蔵よりむしろ


毛利輝元・書状


毛利輝元(1553-1625)
元就の孫。
元就より家督を受け、
足利義昭に頼られるなど絶大な勢力を持ち信長秀吉と敵対したが、
信長没後は秀吉に従う。
五大老の一人であり、関が原の戦いでは西軍の盟主に担がれ敗北する。
戦国の風流武将として歌書に秀でていた。

粟備申趣承知候於我等


臨 福島正則・書状

福島正則(1561-1624)
若きより秀吉の武将として多くの戦功を上げる。
秀吉没後は家康に従い、関が原の戦いの戦功などで大大名の名を連ねる。 
しかし、秀忠の譴責を買い、領地を没収され蟄居のまま没する。

態申入候仍大納言此一
両日少御気分悪敷御座候



臨 高台院・消息

高台院(1548-1624)
秀吉の正室。
足軽時代の秀吉に嫁ぎよく内助の功を発揮した。
気丈な一面が現われている書だ。

鶴方へまいる


臨 黒田長政・書状

黒田長政(1568-1623)
秀吉の武将として数々の武功を立てる。
関が原では、三成と折り合いが悪く家康方に付く。

為見廻千鳥貝




臨 織田有楽・書状

織田有楽(1547-1621)
信長の弟。
信長の死後秀吉に従う。
関が原では東軍に属す。
大阪冬の陣では、秀頼の補佐役として大阪陣にあったが、
和睦斡旋などで重要な役割を果たした。
千利休の弟子で、利休七哲として知られる。
武人としてよりも茶人として名高い。
尚、東京有楽町は有楽斎の屋敷跡の名を止める。

それへ御礼ニ可参と存候へ共
さりかたき用候上方へ