毛利輝元・書状
毛利輝元(1553-1625)
元就の孫。
元就より家督を受け、
足利義昭に頼られるなど絶大な勢力を持ち信長秀吉と敵対したが、
信長没後は秀吉に従う。
五大老の一人であり、関が原の戦いでは西軍の盟主に担がれ敗北する。
戦国の風流武将として歌書に秀でていた。
粟備申趣承知候於我等
臨 福島正則・書状
福島正則(1561-1624)
若きより秀吉の武将として多くの戦功を上げる。
秀吉没後は家康に従い、関が原の戦いの戦功などで大大名の名を連ねる。
しかし、秀忠の譴責を買い、領地を没収され蟄居のまま没する。
態申入候仍大納言此一
両日少御気分悪敷御座候
若きより秀吉の武将として多くの戦功を上げる。
秀吉没後は家康に従い、関が原の戦いの戦功などで大大名の名を連ねる。
しかし、秀忠の譴責を買い、領地を没収され蟄居のまま没する。
態申入候仍大納言此一
両日少御気分悪敷御座候
臨 織田有楽・書状
織田有楽(1547-1621)
信長の弟。
信長の死後秀吉に従う。
関が原では東軍に属す。
大阪冬の陣では、秀頼の補佐役として大阪陣にあったが、
和睦斡旋などで重要な役割を果たした。
千利休の弟子で、利休七哲として知られる。
武人としてよりも茶人として名高い。
尚、東京有楽町は有楽斎の屋敷跡の名を止める。
それへ御礼ニ可参と存候へ共
さりかたき用候上方へ
信長の弟。
信長の死後秀吉に従う。
関が原では東軍に属す。
大阪冬の陣では、秀頼の補佐役として大阪陣にあったが、
和睦斡旋などで重要な役割を果たした。
千利休の弟子で、利休七哲として知られる。
武人としてよりも茶人として名高い。
尚、東京有楽町は有楽斎の屋敷跡の名を止める。
それへ御礼ニ可参と存候へ共
さりかたき用候上方へ
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